春の暮
旅終へしごとく書肆(しょし)出づ春の暮 内海守 (藤田湘子『男の俳句 女の俳句』)
最近ようやく夕方も暖かくなり、発送のお菓子を出すまでの間、西側の小山に日が沈むのを眺めながら花に水をやったり花柄を摘んでいます。
季節の移り変わりは、寒い暑いだけでなく、日の長い短いでも感じるものですが、春の季語には「日永(ひなが)」「遅日(ちじつ)」という、日がながくなり、日暮れが遅くなったことを表す季語のほか、春の夕方も「春夕(ゆうべ)」「春の暮」という季語になっています。
例えば、会社を出るとき、とっぷりと暮れて寒かったのが、日があるうちに地下鉄に乗れるようになるとそれだけで嬉しいものです。私なども、寒い間はひたすら早く帰ろうと思っていたのが、日が伸びて暖かくなると、渋谷で乗ってもまっすぐ帰らず、銀座の教文館か日本橋の丸善に寄り道ということがよくありました。本屋さんを後にするときの満足感と名残惜しさは、まさに旅を終えたときの気分です。
ただ、本屋さんもいろいろで、人文書が少なく実用書と娯楽本ばかりのホームセンターのような作りの店ややたら量ばかり多い店では、先のような感慨には至らないものです。
ドイツにも、ハノーファーやローテンブルク、ニュルンベルクに好きな本屋さんがあって、それぞれ大きすぎず小さすぎず、人文書と美術書が充実しています。日本ではあまり紹介されていない画家の画集を見つけて、どきどきしながらページをめくっているとあっという間に時間が過ぎてしまったものですが、ドイツでは3月になると夕方が長くなるので、長居をしてからも明るい道を帰ることができます。
写真左の画集は、東山魁夷さんの個展が89年春ベルリンで行われたときのカタログです。
左ページの『夕べの聖堂』という作品には、芽吹き始めたマロニエの枝の向こうに淡い朱色とピンクに染まった空とリンブルクの大聖堂が描かれています。マロニエの芽が開き始めた、ちょうど今ごろのながい夕暮です。
一方、右の小さな画集は、ノルデ。北海に浮かぶ北フリースラントの夕景を描いたものですが、大地が黒々としているところを見ると春まだ浅い時期のようです。
北フリースラントの島々と私が住んでいたハノーファーの郊外はだいぶ地形が違うと思いますが、いまでも中世の三圃制の名残で街や村は教会を中心に集まり、耕地は城壁の外に集約されているので、郊外に出ると、ちょうどこの絵のように畑が連なっているのです。もっとも、畑は東側に広がり、西には森があるので夕日は森に沈みますが、冬は学校に着いて8時を過ぎないと昇らない太陽が、春先には学校に行くころ畑の地平線の向こうから昇るのです。地平線の向こうから昇る日と沈む日の違いこそあれ、この絵には懐かしさでいっぱいになります。
いま近代美術館で開催中の東山魁夷展には行けそうになく、まだ壁があったころベルリンで見た東山魁夷展のカタログで、我慢するほかありません。しかし、帰途ベルリンの空港に向かう途中見た夕空は、モネのルーアンの大聖堂の連作のように、ふわっとかるいピンクに暖かい赤みが差し、それは美しいものでした。こんなに美しい夕焼けは東京では見れまい、そう思ってよしとしています。